ひとり語り「目次」 第01回 第02回 第03回 第04回 第05回 第06回 第07回 第08回 第09回
第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回
第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回 第27回
第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回
第37回 第38回 第39回

□第39回「究極のお祓い・御祈祷」
2024.02.16 この小欄を書くのが約10年ぶりである。
長い期間、筆を執らなかったのは、所属する会の業務に時間をとられ、また拙著を発行するために時間を割き、何時のまにか10年の歳月が経ってしまった。
心の余裕が無かったがためでもある。

さて今回の本題「究極のお祓い・御祈祷」であるが、先日の令和6年1月28日に千葉県市川市に在る
「大本山・中山法華経寺」内の「大荒行堂」にての事であります。

過去に小欄で「第25回目・日蓮宗大荒行」として2012年1月に其の模様を書きましたので、
重複する部分もあるとは思いますが、再度違う角度から記します。

今回の導師を務めて頂けたご上人は佐賀県に在るお寺の住職で、今回が五回目の荒行とのことで、
ここに至る迄23年間掛かったと申されました。
全国の日蓮宗のお坊さんの内、この初行の荒行に挑むお坊さんは約半数とか。
その後、再行、参行、四行、五行に臨まれるお坊さんはそれぞれ半数ずつとか。

11月1日の荒行初日から7日ごとに、お坊さん自身に憑り付いているであろう生霊・死霊・野狐・厄神・呪詛などの五段の邪気を祓って12月5日に成満となり、それから一般の人を対象にお祓い・御祈祷がなされるのであります。

世に神社・お寺などで“お祓い”が日常的になされているが、其のお祓い・御祈祷を執行される神職・お坊さんが果たしてどれだけ身を清めて臨んでいるのか、甚だ疑問であります。
“お祓い”の所作は出来ても、執行する神職・お坊さんの身が清くなければ神仏には通じて行かないと思われます。

日蓮宗の大荒行は100日間も冷水を被り、肉食を避けての寒行です。
この様な寒行をなされている事は他所では聞きません。
参加された華の会の皆さんも、口々に “身体が軽くなった” “身がすっきりした” と言っております。
御祈祷も大切かと思われますが、先ずは “自分自身を祓ってもらう” ことが一番ではないかと思います。
毎年の行事でもあります。是非、ご参加をお待ちしています。
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□第38回「第3回 神社検定」
2014.07.10 平成26年6月29日に、全国各神社庁や神社、國學院大學・皇學館大學などを会場にして第3回目と
なる神社検定が開催された。
今回の受検者は初めて行われた壱級と弐級・参級、合わせて約4300人と発表された。これは前回
前々回と比べて約千人ほど少ない人数であった。

私が主宰する「干支九星・華の会」の生徒さんも、前回と比べて受検者が減った。前回合格した
生徒さんも、様々な理由で今回の受検を見送った人が多かった。前回で受検勉強を燃焼しきり、
今回の受検に向けてのエネルギーが注ぎきれなかったようである。
かくいう私も受検はしたが、前2回ほどのエネルギーが無かったのも事実である。受検に向けた
勉強も本腰になれず、初めての壱級受検であったが只受けるだけの姿勢であった。
試検終了後に自己採点してみたが、案の定合格点の70点に届かなかった。公式テキストの内、新た
に加わった2冊の本を1回だけ読んで試検に臨んでも、合格するほど甘くはなかった。

前回から出た2級のテキストの内『神社のいろは続』は、まさに日本史の勉強であった。日本史を
神道の立場から切り込む内容であった。更に今回の壱級のテキスト『神社のいろは要語集 宗教編』
も難しい内容であった。

全国神社界の機関紙のひとつに「神社新報」がある。
7月7日号の中に書評欄が有り、時期良く『神社のいろは要語集 宗教編』の書評が國學院大學神道
文化学部教授・西岡和彦氏の手で書かれていた。
そこには興味をそそられる文章があった。それは同学部で昨年度から新入生に入学時と一年終了時
の二度、「神社検定参級」の試験問題を60分間で解かせているとある。
入学時の平均点は、おおよそ70点前後とのこと。一年終了時には80点前後になる、とある。
最後に同教授は『「神社検定参級」は神道文化学部一年終了時レベルといえよう』とあった。

思うに、参級で大学1年レベルと言うならば、弐級なら、壱級なら・・・・・、不合格も恥じること
ないかな、とつい自己弁護したくなる。
私の教室に國學院大學を卒業した生徒さんが居る。そのI君が言うことには「友人で神職の人が居て、
今回の壱級の試検問題をやってもらったら30〜40点程しか取れなかった」とのことである。

しかし、壱級受検者の中には当然合格した人が居るわけで、その人たちに拍手喝采を贈りたい。
まだ正式な採点結果が出ていないが、今回壱級不合格な私の感想は、
「勉強しないで合格できると思ってはいけない。やはり試検は甘くはない」
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□第37回「神社のいろは 特別セミナー」
2014.03.17 「見て触れて知る神社のいろは特別セミナー」が3月9日にあり、聴講に行く。
このセミナーは神社検定合格者限定で、財団法人日本文化興隆財団が主催したものである。

会場となった國學院大學内の祭式教室は、広い教室内に神社の祭壇がキチンと調えられ、
更に各種の祭具、神饌、神職の装束なども備えられていたのには少々驚きであった。

セミナーの講師は、同大学の祭式主任であられる茂木貞純教授である。
口調の柔らかい茂木教授が、作法篇として手水から始まる拝礼作法のやり方、神饌の意味、
種類、祭具、祝詞、雅楽などの講義をしていただく。
途中休憩を挟んで後半は、有職故実篇として神職の正装・常装および巫女の装束などの
講義があり、参加者全員が神職が付ける狩衣の着装をする機会に恵まれた。

私が講義の中で特に興味をもったのは、上座・下座の関係であった。
過去、望月治先生の教室で習ったことは、神様は向かって左上座、仏は向かって右上座と
教わってきたが、茂木教授が申すには、神様側から見て左上座であると。
と言うことは、我々側から見て向かって右が上座になってしまうことである。
「左上座」の言葉は共通しても、どちらの立場から見てのことか?

この事は常々私の頭の中で気になっている一つでもある。
それは、宮中三殿を知ってからのことである。
宮中三殿は真ん中が賢所で、向かって右側が神殿、向かって左側が皇霊殿になっている。
神殿には天神地祇八百万神様が祀られている。皇霊殿は歴代の天皇・皇后・皇族の御霊が
祀られている。
皇霊殿より神殿の方が位は上と思うが、ハテ向かって右側に神殿が在る・・・・・。
神殿が下座に在る・・・?と疑問に思っていたが、宮中三殿の前方には幄舎が在る。
その幄舎は向かって右側が左幄舎、向かって左側が右幄舎と書かれていた。
宮中三殿の見取り図が書かれていたのは「神社のいろは」のテキストであった。

今回、茂木教授の教えで頭の中の混乱が一応は治まったが・・・・。
神様の上座・下座は、神様側から見てのことであった。
神社の参道を歩く時は正中を避けるのが当然だが、さて右側通行か左側通行か・・・・?
『明治時代、神仏習合でゴチャゴチャになりました』と望月先生の著作本にあるが・・・。
なんともヤヤコシイ・・・・。

茂木教授に質問をした。
神職が階段を昇るとき一段一段足を揃えるが、それは何故ですかと。
我々なら片足づつ階段を上るが・・・。
教授の答えは明確ではなかった。神職の身体の姿勢が神様に向くようにと言うが・・・。
この件も、望月先生が意味有りげに言っていたことが、私の頭の中に疑問として残ってい
たが、これは未だ答えが出ていない。

望月先生が言われた趣旨は、昭和天皇が参議院の開会式に臨まれるときに、玉座に向かっ
て階段を上られるが何故一段一段足を揃えるのか?と。

講義内容の多くは神社検定を受けるために読んだテキストの復習であったが、それでも
直接講義を聞けるには意義深いことであった。
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□第36回「第1回シンポジウム 神道と陰陽道」
2013.12.20 公益社団法人日本易学連合会主催による第1回シンポジウム・テーマ「神道と陰陽道」が、國學院
大學・常盤松ホールにて12月1日に行われた。
講師の方々は、國學院大學・神道文化学部教授・岡田荘司氏、神社本廳奉賛部・部長・稲貴夫氏、
高千穂大学・経営学博士・小野瀬由一氏の諸先生であった。

テーマが「神道と陰陽道」となっているので勉強にと思い、更に岡田荘司教授の講演なので、私
の生徒さんに声を掛けて参加を募り、27名の生徒さんと共に聴講へ行った。

最初に小野瀬由一先生が『陰陽道と日本の神道・道から学ぶ日本の強み』のテーマで講演された。
道(ドゥ)として芸道・武道があり、芸道には和歌道・茶道・華道・香道・能楽道・歌舞伎道など
があり、それぞれの起源および時代背景などを述べられた。
また、武道には弓道・相撲・剣道・柔道などがあり、それぞれの歴史なども述べられた。

その芸道と武道には精神的背景として宗教が加わってきたと言う。
茶道と華道には、特に禅宗の影響が強く反映されて発展してきたと。
武道には神道の影響が見られると言う。
そして小野瀬先生は最後に、グローバル展開する企業人として日本文化の宗教・言語・習慣などの
精神的背景を理解し説明できるスキル教育が重要であると説き、締めくくられた。

次に稲貴夫氏が『伊勢の神宮と式年遷宮・常若の理念を社会に活かす』とのテーマで講演された。
10月2日に内宮で、5日に外宮での式年遷宮が無事終了した後だけに、式年遷宮をテーマとした話に
興味を注いたが、失礼ながら講師の話し方が単調で、いささか拍子抜けした感がある。
しかし配布されたレジュメには、天照大御神が申されたとされる「三大神勅」、皇太神宮及び豊受
神宮の起源などが古事記・日本書紀から詳しく引用され書かれていた。
更に式年遷宮を行う理由、歴史なども記され、神社検定を受けた身には大いに復習させられた。

最後に登壇した岡田荘司教授の講演は、さすがと言っていいほど話に吸い込まれ、魅了させられた。
テーマは『神道と陰陽道」で、その二つは同質と異質の両面があると言う。神道では卜部の亀卜と
御体御卜、神道と陰陽道の卜筮など共通点を挙げる。しかし祭祀では異質なところがあると言う。
しかし、神道・仏教・陰陽道・修験道は日本文化の展開に重要な役割を担ってきたといえると。

また日本と中国との宗教の違いを、中国では道教・儒教・仏教があり、日本は神道・儒教・仏教・
陰陽道・修験道があるが、そのうち陰陽道と修験道は平安時代中期に言われたものであると教授は
申された。更に、陰陽道は中国から入って来たものではないと断言される。

重要な事が書かれているので、岡田教授のレジュメから抜粋して下に記す。
『陰陽道 おんようどう
 「おんみょうどう」とも読む。古代中国に発生した陰陽五行説に基づく俗信を母体とし、わが国
 で独自に成立、発展してきた。陰陽道は中国で成立したのではなく、わが国の特殊な歴史的事情
 を背景に、宗教的、呪術的性格が増幅され、独自の展開を遂げてきた。その起源とされる陰陽五
 行説は、日月星辰、十干十二支の運行・配置により、相生相克の理に基づいて吉凶禍福を判断し、
 国家・社会や個人の行動を規制し、その神秘的側面は道教の主要な構成要素ともなっていった。
  陰陽五行説の伝来は、六世紀初頭の継体朝に百済から五経博士が来朝したのを始め、推古天皇
 十年(六〇二)には、百済僧が来朝、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上、朝廷は書生に学ば
 せた。律令国家に入ると、天武天皇自らも天文・遁甲の術をよく好まれ、国家機関として陰陽寮
 が置かれ、私的利用は極力抑えられた。
                 中  略
  陰陽道は呪術的祭祀の面で独自の展開を遂げ、その道を継ぐ家筋も特定氏族に固定する。とく
 に賀茂保憲は、子息光栄に暦道、弟子の安倍晴明に天文道を伝え、こののち陰陽道は賀茂・安倍
 両氏に分掌された。呪術に秀でた安倍晴明は貴族社会の要請によって招福祈祷や祓呪術の祭法を
 もってその存在感を示し、陰陽師の地位向上につながった。
                 中  略
  平安末期以後は陰陽寮の管理を受けない民間陰陽師が祓祈祷に従事し、庶民の俗信的信仰とし
 て定着する。
                 中  略
  陰陽道の思想と陰陽五行説は、中世の神道説である伊勢神道、吉田神道に影響を与え、祭祀の
 面でも吉田神道の祭式に受け継がれた。近世に入り、安倍氏がその居宅の名称を用いて土御門神
 道と称し、卜占や祓祈祷を中心とした神道の一流派、土御門神道を創立したが、明治に入り、新
 政府は、陰陽道を廃止した。』

長い引用となったが大事な部分である。
話が前後するが、講演が始まる前に、隣接する「國學院大學博物館」を岡田教授の案内で見学させ
ていただいた。貴重で且価値ある物が展示され、再度ユックリ見学したい所である。
開館は平日のみで、しかも無料ですから興味ある方に見学を勧めます。
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□第35回「第2回 神社検定受検者統計」
2013.08.19 去る6月2日に行われた「第2回神社検定」の合否判定とデータが、7月下旬に送られてきた。
私の教室の生徒さんたちは、参級受検者が24名、弐級受検者が私を含めて6名であった。

全国での受検者は、参級2398名、弐級3000名であるが、合格者数・合格率・平均点が昨年
と大きく様変わりしている。出題傾向が変り、更に制限時間が短縮されたことに由来する。
参級・弐級ともに合格点は70点以上だが、今年は参級受検者に特例が用いられた。
この特例とは参級に限りだが、正解者が70%に満たない場合は、上位70%を合格認定すると
いうものである。
昨年と違い、今年は制限時間が30分短縮されたことで、70点以上の合格者が1190名で49.6%
となり、合格点を61点以上に繰り下げて合格率を70.6%にしたのである。その結果、合格者
は1692名で、平均点は68.7点である。

我が生徒さん達は、受検者24名中17名の合格者を得られた。そのうち11名が70点以上の堂々
な合格であった。最高点は89点の滋賀県の生徒さんであった。
皆さんそれぞれに短期間で集中しての勉強と思われるが、全ては努力の結果である。
惜しくも合格に届かなかった生徒さんも、決して合格点に程遠いのではなく、あと数点で
逃した人が殆どである。

弐級の試検結果では、受検者3000名(併願者約700人)のうち合格者は966名である。合格率
32.2%で、平均点は62.2点であった。この結果には少々驚きである。
昨年に参級を初めて受検して合格した人は4606名で、合格率は82.9%の好結果だったが、その
人たちが今回弐級を受検したと思われる。しかし合格率が一気に3割少々に落ちたのである。
たしかに、昨年の参級の出題と今年の弐級の出題では、難易度に差はあったが・・・・。
この分でいくと、来年の壱級合格者は1割ほどと予想できる。

さて、私を含めて弐級の試検結果は、6名のうち4名が合格ができた。受検者6名のうち4名が
参級との併願であり、そのなか2名だけ合格に届けず残念であった。
そもそも併願での勉強は大変であると思う。併願で合格した2名の生徒さんには頭が下がる。
そのうち1名の生徒さんは70代後半の女性である。ご本人は「私は歴史が好きだから」と謙遜
していたが、参級・弐級ともに立派な点数で、生徒さんの鏡でもある。

私の結果は、合格者966名中147人目であった。決して満足できる点数ではないが、勉強した
ことに充足感はある。合格した生徒さんの中では、点数だけは何とか最高点であったが・・・。
来年は壱級のチャレンジである。未だ試検テーマ、テキストなどは発表されていないが、他の
3名の生徒さんと共に頑張りたい。
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□第34回「神宮式年遷宮」
2013.07.12 昨年から今年にかけて、伊勢の「第62回神宮式年遷宮」にまつわる書籍、雑誌の出版が多く
なり、テレビでも取り上げる回数が増えてきた。
本年10月2日に内宮で、5日に外宮で、式年遷宮にかかわる33回ある諸祭のなかで一番重要な
「遷御」が夜8時から行われる。「遷御」とは、御祭神の天照大御神が新しい御正宮へ遷られ
る祭儀である。

神宮式年遷宮は1300年の歴史を有し、20年に一度、御社殿・御装束神宝を新たに造り替える
神宮最大の厳儀である。今年が遷宮の年にあたるが、8年前の平成17年から諸祭の始めである
「山口祭」といわれる祭典から既にスタートしている。

推薦図書にも出した「遷宮のつぼ」扶桑社刊には、その祭儀の様子が細かく書かれている。
それによると、平安時代初期に纏められた律令の施行細則『延喜式』に、『凡そ大神宮は
二十年に一度、正殿・宝殿および外幣殿を造り替えよ。皆新材を採りて構え造れ。宮地は
二処を定め置き、その旧宮の神宝は新殿に遷し収めよ』と記されている。
20年に1度の遷宮の定めが、既に1086年前に国家として決められていたのである。それより
遡ること約230年前に第1回目の遷宮が、飛鳥時代の第41代持統天皇の御代に内宮・外宮で
斎行されている。

文献をひもとくと、古代の遷宮は内宮が先に行われ、ほぼその2年後に外宮の遷宮が行われ
ていた。また、第1回目からほぼ20年目毎に行われているが、内宮では第40回式年遷宮を最
後に124年間行われず、外宮においては第39回式年遷宮を最後に130年間中断してしまう。
これは室町時代の応仁の乱以降、戦国時代へと入っていく世情の混乱期であったが為である。
しかし、第41回式年遷宮から内宮・外宮とも同じ年で遷宮が行われるようになり、以後は
現在に至るまで同年の遷宮斎行が続けられている。

さて今回の遷宮について「遷宮のつぼ」から窺えることは、33の諸祭はどれも厳粛に行われ
ているが、特筆すべきは神饌である。
神事には神饌が付きもので、通常は海の幸・山の幸のお供え物であると理解しているが、こ
の式年遷宮に限って、神宮の重要な祭儀に奉られる白鶏(しろきかけ)の生調(いきみつぎ)
といわれるつがいの白い鶏と鶏卵(かけいのかいこ)といわれる鶏の卵が、通常の神饌と共
にお供えされている。
このことは『延喜式』にも供えることが記されているという。
33回の諸祭のなか、6回の祭儀に白鶏と鶏卵がお供えされている。このお供えが何を意味する
のか、「遷宮のつぼ」には理由が書いておらず、他に詳しく書かれた書物を知らない。

通常、鶏卵をお供えする場合は御祭神が蛇(巳)であることと思うが、伊勢の神宮で御祭神
が蛇というのは聞いたことがない。
内宮の御祭神が天照大御神であることは有名だが、他に相殿神として祀られている神様は、
天手力男神(あめのたぢからおのかみ)と萬幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきづひめのみ
こと)の二神である。
天手力男神は、天石屋戸で天照大御神がお隠れになった時に、天石屋戸から天照大御神の御手
を取って引き出された神様である。
萬幡豊秋津姫命は、天孫降臨で降りてこられた邇邇芸命(ほのににぎのみこと)の母神である。
この二神は蛇とは関係がない神様と思われる。

秘儀の儀式が多い神宮ゆえ、一般に窺い知れぬ事柄が多いのであろう。
まだまだ興味が尽きぬ伊勢の神宮である。
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□第33回「第2回 神社検定」
2013.06.05 北海道から九州に至る全国の会場で、平成25年6月2日(日)に第2回目の神社検定が行われた。
今回から弐級の試験が加わり、参級と併せて全国で約6千人の受験者が問題に取り組んだ。

昨年6月に初めて開催された神社検定では、事前の宣伝が少なく、申し込み者が6千人を少し
超える程度だったので、2回目の今回はポスター、新聞の広告などで周知が図られたが、案に
相違して申込者が意外と少ないことにはガッカリし、驚きもした。昨年と同じような人数だ。
私の教室「干支九星・華の会」の生徒さんには、今年1月ごろから受験を勧めてきました。
こういう機会を捉えて日本の文化を勉強していただきたい想いだった。『古事記』を学び、
神社を知り学ぶことは、日本人としての誇りに繋がると思う。

私の底辺には、占いの師として学んだ「望月治」先生の謂われた一言が頭に強く残っている。
それは「古事記を読みなさい」だった。今から32年前のことであった。私はまだ30代前半の
頃だったから、正直ピンと来なかったが、望月先生の想いは、占いの勉強をしていくだけで
はなく、もっと深いところから学ばせたかったのではないかと、今にして思う。
一見すると、占いと古事記は繋がりにくいと、占いを取り巻く環境では思われがちだが、底
の浅い勉強はするなと言う師の深い想いだったのでは・・・・・。

ともあれ私の教室の生徒さんは、検定が近づくにつれ段々人数が増え、私を含めて28名の申
仕込み者になった。70代後半から20代半ばの生徒さん達である。大分県の生徒さん、滋賀県
の生徒さんも含めて、皆さん居住地での受験となる。
母娘で受験する人、親子で受ける人など、この神社検定の勉強を家庭内でしているかと思え
ば微笑ましい。
受験する生徒さん達は、ほとんどの人が正式な試験は何十年ぶりのことである。運転免許の
とき以来とか、資格試験以来とか、試験と聞くだけで胸にドキドキ感を覚えるのであろう。

各教室で、講義の合間に神社検定に合わせて質疑応答を行なってきた。
若い生徒さんだけではなく、中年世代の人たちも含めて基礎的な面から質問をぶつけてみた。
「初代天皇は?」「三種の神器は各々どこで祀られているか?」「剣璽とは何をさすのか?」
「宮中三殿とは?」「今上天皇は何代目?」「伊勢の内宮と外宮のご祭神は?」・・・など。
学校で教わっていない事柄ゆえか、やはり解答はおぼつかない。
今回の神社検定では合格が目的ではなく、こういう機会を通して日本の文化を学んで頂きたい
から、私は勧めたのである。特に「古事記」を学ぶ良い機会でもあった。

さて試験当日、会場の東京・渋谷の國學院へ行ってみると、昨年と違い受験者の数が極端に
少ない。今年から埼玉、千葉の会場が増えた分、分散して少なくなっていると思うが、もっと
多くの人たちに参加を促したい思いだ。
我が生徒さんたちは、仕事で急遽受験できない人が出たが、予定通り各地での受験となった。
3級の試験終了後、出てくる生徒さんに感想を聞いてみると、一様に「時間が足りなかった」と
言う。昨年は90分100問が、今年は60分100問である。30分も短縮されて無理もないと思う。
試験の難易度は昨年と大きく変わらないと、試験問題を後で見せてもらって思う。ただ今年は
3級が出題傾向に変化があり、2級の試験も傾向としては同じであった。

私は、今年は2級の試験だったが、生徒さんで2級を受けた人は前回3級に高得点で合格した一人
と、今回初めて3級と2級を併願した人が4人居る。
2月下旬にテキスト2冊が発売になってから取り組んできたが、纏め方が悪かったのか、年齢の
せいか、昨年の3級試験の点数から大きく10点近くほど落としてしまった。
2級の試験時間が80分100問で、去年から10分短縮されたのが大きかった。事前に分かっていた
だけに、試験中は時計を気にしながら問題に取り組んだが、100問目が終わったのが3分前のギリ
ギリだった。焦りから100問目は簡単だったがミスをしてしまった。
すべては言い訳になるが、時間が足りなく、3級の人たちはもっと気の毒だっと思われる。
後で集計が出て、平均点がどのくらいになるか。
試験の点数は勉強してきた結果の指数であるが、勉強の仕方に反省すること頻りである。
ひとつ一つ確実に覚えなければならないと思うし、これは全ての勉強にいえることでもある。
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□第32回「神社検定合格者セミナー」
2012.12.17 平成24年6月に行なわれた、第1回神社検定参級の合格者限定セミナーが、この秋に
日本文化興隆財団主催で鎌倉と京都で行なわれた。
「神社」や「神道」への理解を更に深めるためのセミナーであり、正式参拝や宮司
の講話など、悠久の歴史に裏付けられた日本文化に触れる機会となった。

11月中旬の鎌倉コースでは、鶴岡八幡宮・荏柄天神社・鎌倉宮に参拝する。
鶴岡八幡宮では宮司の講話が1時間に及び、神道の歴史から日本文化と西欧文化との
対比、また諸宗教と神道の違いを話される。
宮司曰くに、仏教は悟道の宗教、キリスト教は救済の宗教、儒教は教道の宗教、イス
ラム教は啓示の宗教と位置づけ、そして神道は修祓の宗教であると結論づける。

講話の中で、境内にある樹齢千年余り、周囲7m・高さ30mの御神木「大銀杏」が平成
22年3月10日朝4時頃に倒れたことはメディアなどで報道されたが、この御神木のお見舞
いの為に、両陛下が同年6月7日にわざわざ行幸啓された事を話された。
「大銀杏」が倒れた後に、他所で宮司が両陛下にお会いなされた時、是非一度見てくだ
さいと申されたとか。わずかな接見での一言を両陛下が覚えてくださり、約束だからと
言われて「大銀杏」のお見舞いに来られたようです。両陛下のお人柄が偲ばれます。

京都セミナーには紅葉が美しい11月下旬に参加する。
石清水八幡宮・賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)に正式参拝
する。
石清水八幡宮には初めて行く。ここの宮司は神社庁の総長を務めている人なので、講話
を聞く事が楽しみであった。
神社庁総長なので、さぞ厳めしい人かと思えば、意外や饒舌な話の面白い宮司であった。
八幡様の神様は饒舌なので私も・・・・、と総長の自己弁護であった。
汎神と言って、全ての中に命(神)が有ると言い、日本人は全ての物・海・山・植物など
あらゆるものに命を認め大切に敬ってきたと。
また、浄明正直(じょうみょうしょうちょく)が神道の行き方であるとも言う。更に、他
の宗教は○○教の名だが、道が付く宗教は神道だけであると言う。

立砂で有名な上賀茂神社へ移動したが、日曜日で晴天だったせいか参拝者が多かった。
ここ賀茂別雷神社での正式参拝は殊の外素晴らしかった。
通常の参拝では入れない神域に一歩足を踏み入れば、それまでの空気とまるで違う。
この感覚は、以前伊勢の内宮での正式参拝した時と同じである。そこに神様が坐す想いで
あった。この数分間の想いだけでセミナーに参加した価値があった。

セミナーだけに内容の濃い講話も良いが、実際にそこの神社へ行き、神域に足を踏み入れ
て神気を感ずることは参加した者でないと分からない。
まして正式参拝は、個人ではなかなか出来ないことである。
来年の神社検定弐級で合格を目指し、その後の限定セミナーが今から楽しみである。
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□第31回「七面山登詣」
2012.10.17 平成24年(2012)の本年は、5月11日・12日と9月8日・9日の二回に亘り登詣する。
昨年7月の時の大雨と違い、今年は二回とも晴天に恵まれた。

5月の時は生徒たちと16名で登詣したが、その内、初めて七面山に登る人は11名であっ
た。初参加でも、健脚な人は2千メートル弱の七面山であってもスタスタと登っていく
が、中には青息吐息で登り、途中で足が痙攣を起す人など苦難な登詣の人も居た。
9月の時は、前回の時に日程の調整がつかず止むなく参加を断念した人などが加わり、
また富山県から3名が参加し、5歳の女児から70歳の人まで総勢29名での登詣となった。
その内、21名が初登詣なので全員が無事に登れるか心配したが、杞憂であった。

頂上に在る「敬慎院」の本堂で、お坊さん達が行なう朝勤と夕勤に我々も参加させてい
ただく。その時に、お勤めが終わると別当さんから法話を伺えるが、有り難いことに私
たちを「干支九星華の会」の皆さんと呼びかけて戴き、昨年の台風の時に登詣した時の
事、その時に台風の為に下山できず止むなく「敬慎院」に二泊した時の様子などを、お
褒めの言葉を戴きながら話してくださり、感謝と共に恐縮の至りであった。
本堂のお勤めに参加している他の人々も居る中で、また、七面山に登詣する人達は年間
で多くの人数になると思うが、きちんと覚えて頂ける幸せと、別当さんの暖かい人柄の
御蔭と感謝する次第である。

9月9日は奇しくも重陽の善き日であったが、素晴らしい御来光を拝することが出来た。
昨年と今年5月の時も御来光は拝せなかったが、七面山の頂上から富士山が大きく見え
るが、その富士山の中腹辺りから朝日が顔を見せ、皆大きな歓声を上げて喜んでいた。
古い生徒さんは、ここぞとばかりに「朝来」の形で額に御来光を受けていた。

程無く、皆と「七面山奥之院」に向かう。
大きな影向石を巡っている生徒たちを後にして、一人で貴重な品を購入しに中に入る。
三々五々と奥之院前に佇んでいる我々一行に対して、奥之院・功刀別当さんが気さくに
声を掛けてくださり、別当さんを挟んで記念撮影することとなった。
後でその写真を見れば、功刀別当さんの顔に朝日が当り、まさに後光が差してるような
善いお姿であった。
奥之院・敬慎院共に、そこに山務しているお坊さんたち、別当さんは、本当に皆さん善
い人達ばかりである。さすが仏に仕えている人達は違うと、我が身を振り返り反省する。

その七面山敬慎院・長谷川寛清別当さんは、来年3月末で交替されるという。
聞けば、七面山・敬慎院に勤めているお坊さんは3年で交替となるらしい。お坊さんたち
と顔なじみになるも、少々寂しさが湧いてくる。
生徒の中には、長谷川別当さんに慕うがように、ファンの如くになっている人が居るが、
来年3月末の交替式にもぜひ参加したいと言う。
今回初めて登詣した他の生徒さん達も、また次回も是非登りたいと言う。
七面山である、七回登詣するのが良しとする。


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□第30回「神社検定受験者統計」
2012.09.11
去る6月3日に行なわれた、第1回神社検定参級の結果通知書が8月に送られてきた。
さらに神社検定のHPには、受験者統計・得点別集計表がアップされていた。

合否の結果通知書には、試験終了後に答え合わせをした通りの点数が記されていた。
実際に受験をした人が全国で5556人、合格点が70点なので、合格者は4606人とある。
合格率は82.9%で、平均点は80.8点とあった。受験者は実に高いレベルであったとい
えるのではないか。
結果通知書と共に、合格者には伊勢の神宮の御用材となる木曽檜で造られた絵馬型
「参級認定証」が同封されていた。ちょっとした立派な置物となる。

一方の受験者統計・得点別集計表を見ると、男女比で男性は59.6%。女性は38.4%と
なっている(不明者も居るので100%にならない)。
さらに年代別で見ると、30代と40代がほぼ同数で全体の半数を占め、20代・10代の
人達も合わせると全体の66.8%程になる。
この様に、若い人々が神社検定に臨んでいることは嬉しい限りである。
神仏といえば高齢者が拘るイメージが強いが、若い人たちが確実に増えているので
ある。単なるスピリチュアルブームに浮かれて神社参拝している若者と違って、公式
テキストを勉強しての参加である。
ちなみに年代別人数で多い順に記せば、40代・30代・50代・20代・60代・70代・10代
となっている。

得点別集計表を見れば、100点の人が2名居る。以下99点から今回の最低点、33点まで、
各1点刻みで人数が記されており、受験者自身が何点で何人目に当るか、親切に集計さ
れている。ちなみに90点を取った人が一番多く、224人居る。
私自身は、私の前に69人居るので70人目に当る。しかし同じ70人目の人は他に85人居る。
また欲を言えば、各設問毎の正答率を知りたいと思う。

決して難しい試験ではなかったが、やはりキチンと勉強しなくてはいけないと反省する。
何十年ぶりの試験だったが、良い刺激となった。
次回の試験予定日は、平成25年6月2日(日)です。
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□第29回「日光二荒山神社中宮祠と別宮滝尾神社」
2012.07.22 梅雨の合間の曇り日に、華の会有志6名と共に日光へ。
日光は観光地としても有名で、平成11年(1999)には世界文化遺産として、社寺(日光
東照宮・二荒山神社・輪王寺)が登録されている。
今回はその中でも人知れずの神社である「滝尾(たきのお)神社」参拝が目的で行く。

「日光二荒山神社」の別宮が「滝尾神社」で、弘法大師が820年に創建されたと伝えられ、
現在地は、二荒山神社本社から約1km離れた杉木立の山中に鎮座している。
日光東照宮へ行く人は多いといえども、この「滝尾神社」へ行く人は数少ないであろう。

白糸滝から流れる水音が心地良く響く中、さほど険しくない山中を少し歩けば境内となる。
影向石(ようごうせき・神仏が仮の姿で現れた石)を右に見ながら石畳の参道を歩く。
ほどなく行くと、鳥居の上部の額束(がくづか)と謂われる部分に丸い穴が開いている。
案内板を読めば「運試しの鳥居」とある。徳川家光の忠臣が奉納されたもので、丸い穴を
めがけて小石を三つ投げ、穴を通った数で運を試すとある。
一時童心に返った気持ちで、皆真剣に投げてみたが誰一人穴に小石が通らなかった。しか
し、この様な鳥居を見たのは初めてである。深い意味があるのか否か・・・、記憶に残る。

拝殿・本殿へと進むが、御祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)であられる。大己貴命
(おおなむちのみこと・大国主命の別名)の妃神であられる。また、この神社は女体中宮
とも呼ばれ、子宝信仰に繋がるようだ。
本殿背後に三本杉の御神木がある。苔むした石柵で囲われたこの一角の前に立つと、数名
の生徒が「ここは凄いパワーがある」と強く言う。滝尾神社全体には神気が漂っているが、
三本杉の御神木近くは一段と違うようだ。
伝説に依ると、この御神木一帯は御祭神の田心姫命が降臨した場所と伝えられている。
まさに「神様が坐(ま)します」杜である。

次に向かった先は、日光名物いろは坂を越え、中禅寺湖の湖畔に在る「日光二荒山神社中
宮祠(ちゅうぐうし)」である。
御神体の山として男体山を仰ぐが、その登拝口に「中宮祠」が鎮座している。
先ほどの神社と違い、街中に在る、誰でも参拝しやすい大きい神社である。
境内には宝物館があり、男体山の山頂には奈良時代からの祭祀遺跡があり、その出土品の
数々は国宝、重文指定され、それらが収められているようだ。
聞けば、福岡県にある宗像大社・沖ノ島にある祭祀遺跡が「海の正倉院」と謂われるが、
こちらはそれと双璧される「山の正倉院」とも称されるらしい。
生憎その日は、翌日の展示開催のため休館であったが、一度は見ておきたいと思う。

境内の登拝口に向かう所に鳥居があり、鳥居の台座を見れば蓮の花があしらわれている。
蓮の花は仏であり、まさしく神仏習合の名残である。しかし「唐銅鳥居」として重文指定
されている。
さらに進むと、脇に「カワラケ厄落し」とある。似ているものに京都の壬生寺で行なわれ
る「焙烙割り」が有名だが、どちらも厄除けである。しかし、神社で御目にかかるのは初
めてである。
カワラケは素焼きの土器だが、天平瓮(あめのひらか)と形も大きさも似ているので、念
の為、後で神職さんに聞いてみたが、埴土は入っていないようだ。
ともあれ、カワラケで厄を落としてきた。皆にもカワラケの厄落しを体験してもらった。

今回の小旅行は、フトしたことで知った「滝尾神社」参拝が目的だったが、期待に違わぬ
神社であった。神気を全身で感じたい人にはお勧めの神社であります。
駐車場が有るので、車で近くまで行かれますが、道が分かりづらいので事前に確認を。



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□第28回「第1回神社検定」
2012.06.08 神社界初の「第1回神社検定」が6月3日(日)におこなわれた。
一般財団法人「日本文化興隆財団」主催、神社本庁監修で、全国38ヶ所の会場で6千人
を超える受験者が、試験時間90分100問に取り組んだ。
事前に公式テキストとして「神社のいろは」と「神話のおへそ」二冊の本が出版され、
その中から出題された。
今回のテーマは「神社と神話の基礎」で、「神さま」「神社」「お祭り」「信仰」「歴史」
「神話」などについて問題が出された。

2月上旬発売の公式テキスト二冊を購入し試験に備え読み進めていったが、「神話のお
へそ」の本が読み応えあり中々進まない。
仕事柄、生徒さんたちと地方の神社には行っているほうだし、「古事記」も読んでいる
ので公式テキストは難しくないが、いざ試験となれば立場的に悪い点数では格好がつか
ない。試験日の6月3日近くになり、必死になってテキストを纏めた。

東京近郊の受験者は、試験会場が國學院大學(渋谷)か日本大学(水道橋)になるが、
私は國學院大學になり、当日、会場に着き、見渡せば受験者は男性が多く、なかでも
中高年の人たちが多いように見受けられた。千人近くは居ただろうか、これだけの人た
ちが神社および神話に興味を持っているのかと思へば何だか嬉しくなる。

さて試験であるが、私は満点取ることを目指して臨んだ。70点以上が今回の合格ライン
と発表されている。
10:30〜正午までの90分間100問を、時間一杯使って試験は終わった。

終了後に入ったファミリーレストランで、隣席の男性が試験の答え合せを行なっている。
いずこも同じである。私も早速答え合せを始めた。
満点を目指して臨んだはずだが、惜しいかなチョットで届かなかった。
引っ掛け問題あり、思い込みで解答欄に記入したのもありで至極残念である。
正式な成績通知は8月上旬に来るとのこと。

今回の「神社検定」は第1回目で、「参級」の試験問題となっている。
来年は「弐級」の試験に挑む予定である。再来年は「壱級」である・・・・・。
ぜひ皆さんも、来年の「参級」試験に挑んでいただきたい。
神社・神道は、わが国の文化の核心部分と思います。
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□第27回「古事記編纂1300年」
2012.04.19 平成24年(2012)の今年は、日本最古の古典であり歴史書でもある「古事記」が、
編纂(へんさん)からちょうど1300年を迎える。

7世紀後半に天武天皇の命を受け、記憶力に優れた稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦
(よ)み習わしていた歴史を、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録して『古事記』
としてまとめられたのは、平城京遷都から2年後の712年のことであった。

今回、再び読み返してみた。
私たちが住む、この日本列島がどのようにして出来たのか、日常、口にしている
お米がどうやって入ってきたのか、古代の人たちがどの様に暮らしていたのか、又、
各地の地名の由来など、様々な事柄が『古事記』の中から見出される。
さらに、各地の神社に祀られている神々が、どのようにして誕生していったのか。
神社の創建がどのような経緯をたどって出来たのか等々、教わること大である。

作家であり元外務事務官であった佐藤優氏が、「神話のない国家はいずれ崩壊しま
す。われわれにとって、日本神話はかけがえのないものなのです」と述べられてい
たが、国家はもとより各家庭でも、日本人一人ひとりが神話を読み、その精神文化
を伝承していかなければならないと思う。

3年前の平成21年に、住まいの近くの産土神社で「日本書紀の勉強会」を行なってい
ること知り、受講しに行った。
國學院大學、神道科の阪本是丸教授を講師に迎え、月1回、夜の2時間だけだが、平成
23年2月まで内容の濃い講義を受けていたが、翌3月の震災があったために中断となり、
未だ再開されていないのが残念だ。
阪本是丸教授は、大学内での存在はもとより、全国の神社を包括している神社庁発行
の機関紙「神社新報」の論説主幹も務め、神社界においても要職を占める、かけがえ
のない先生である。

私が占いの師の講習会に入るきっかけとなった時、直接、師に言われたことの一つに、
「古事記を読みなさい」であった。時は昭和56年(1981)の春であった。
以来、久しく時が経過したが、初めて古事記を読んだときの感動は今でも忘れ難い。
私も皆さんに伝えたい。「どこからでも良い、取っ付き難いなら絵本でも、マンガでも、
とにかく古事記を読んでいただきたい」と。
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□第26回「絆」
2012.03.23 昨年の東日本大震災以降、人々の心の中に「絆」の意味合いが重んじられてきた。
家族の絆、知人・友人との絆など、人と人との関わりの中では大変重要なことだと思う。
まして、この震災で身内を亡くされた遺族には、亡くなった人に対して何時までも心と
心で繋がっていたいと思うのも、人間として自然な心の発露であると思う。
「絆」とは、広辞苑に依れば「断つにしのびない恩愛」「離れがたい情実」とある。

私たちには両親が居て祖父母が居て、そのまた上の曾祖父母が居たわけだが、既に亡く
なっているそれらの先祖に対して、どれだけの思いの「絆」を抱いているだろうかと、
フト考えてしまう。
死に別れ際が悲惨であればある程、「絆」への思いは強いが、一般的な死別であれば、
いつしか時間の経過と共に薄れていくのも、また常であるかもしれぬ。

昨年末ごろ、私の各教室の生徒さんたちに、自分の両親・祖父母・曾祖父母の名前と生
年月日、没年月日、戒名などを記入できる簡易家系図を配って記入してもらった。
父方の祖父母・曾祖父母、母方の祖父母・曾祖父母まで四代前までだが、両親から数え
て14名存在する。
祖父母から見れば、自分たちは孫の代であり、曾祖父母から見れば曾孫の世代である。
決して遠い代ではない。自分に命を継いでくれた尊い先祖である。

思いもよらず、両親・祖父母・曾祖父母全員の名前が記入出来た生徒は、極少人数であ
った。自分の生まれる前に亡くなっていたとか、顔をよく覚えていないとか、記入でき
ない理由は様々あれど、これが今の時代の縮図かも知れぬ。
まして、亡くなっている人の戒名などは、近い故人なら知っているが、曾祖父母の代に
なると・・・・である。
生徒さんたちの名誉にかけて言わなければならないが、抜き打ちの家系図記入だったか
ら書けない部分が出たが、自宅に帰れば、メモ帳を見ればと言う生徒は多かった。

今の時代、家の宗旨を知らない人が多いと言う。それも中高年の人達だという。これは、
或る葬祭業の方の弁である。
自宅に仏壇が無い、お墓が地方に在るからなかなか行かない等々。まして核家族で、親
が子供に先祖の人達のことを伝えないのが原因であろう。
「絆」の大切さを強調することは頷けるが、自分の先祖に対しても「絆」の意味を傾け、
今一度、両親・祖父母・曾祖父母の14名だけでも良いから、名前・没年月日、戒名など
調べてほしい。
自分に命を継いでいただいた先祖であり、子孫に命を継いで行くためにも。
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□第25回「日蓮宗大荒行」
2012.01.24 世界の三大荒行の一つに数えられる「日蓮宗大荒行」が、平成23年11月1日〜平成24年
2月10日まで、千葉県市川市に在る「中山法華経寺」の「大荒行堂」で行なわれている。
三大荒行と言われるのは、日蓮宗の大荒行、天台宗の「千日回峰行」、インドの「ヨガ」
である。
300年の歴史を誇る「日蓮宗大荒行」は、毎年この極寒の中で、日蓮宗に伝わる祈祷法の
伝授を受けるため、僧侶が百日間の苦修錬行をするのである。今回は159名の僧侶が全国
から集まって挑んでいる。

行を受ける僧侶は、下帯姿の上に白木綿単衣、清浄衣(僧侶の死装束)だけを身にまとい、
頭を剃髪して厳しい修行に挑む。下界とは隔離され、テレビはおろか新聞も無く、通信手
段も許されず、極寒の中にあっても荒行堂内は暖房が一切無く、まさしく荒行三昧となる。

午前3時前に起床し、極寒の夜も明けぬ深夜3時に下帯姿だけで水を数回かぶるのである。
その水行が午前3時、6時、9時、正午、15時、18時、23時の一日7回行なわれるのである。
水行の間の各々数時間は大声での読経三昧といわれている。
一日3時間弱の睡眠と、一日2回、午前5時半と17時半の食事。それもお茶碗一杯ほどのお粥
の中に梅干一つ、具の無い味噌汁だけである。食べるというより口に流し込むだけの食事、
正味15秒ほどである。勿論お代わり無しである。

その様な荒行に、今回、私の池袋教室に来ているT君が初めて荒行に挑んでいる。23歳の若
きT君は「葛飾柴又の帝釈天」に山務する僧侶である。実家は名古屋のお寺である。
11月1日から行に入って12月5日までは面会謝絶である。初行の僧侶は初めての経験だけに、
最初の20日間ほどが一番きついそうだ。睡眠が取れず、食事も粗末なもので、荒行に入って
ほどなく意識が朦朧とするようだ。昔は衰弱死した人も出たと聞く。

陰ながら心配していたが、12月6日の面会解禁日に生徒5名と共に行く。
マスク着用を義務付けられて、大荒行堂内の面会室に向かう。やがて現れたT君を見て一瞬
我が目を疑った。体は痩せ髭は伸び放題である。聞けば体重は15キロ痩せたという。声は読
経で枯れていたが、眼は輝いていた。ただ寒そうにしている姿には可哀相であった。
下界と謝絶されて極限の荒行をしているだけに、面会に嬉しかったのか涙を浮かべていた。
他を見ればT君だけではなく、他の僧侶も面会者と涙の対面であった。

激励がてら面会に行ったが、今まで知らぬ世界を見た様で、胸に来るものが一杯あった。
今の世の中、あまりにも平和すぎて、自己の鍛錬というか厳しい訓練を受けることなく生き
ている者が多い。この荒行とまではいかなくとも、厳しい訓練は人生の上では必要と思う。

     
年明けて大寒の日、生徒達と総勢35名で、荒行僧の祈祷を受けに初めて荒行堂内に入る。
本堂に入ると、20名ほどの荒行僧が朗々と読経するなか着座する。導師の元、祈祷の読経が
始まり、やがてその20名程の荒行僧(修法師)が我々全員を囲むようにして、手に手に魔障
を切る木釼(ぼっけん)を持って加持祈祷の修法をしていただく。
その最中、経験したことが無い、胸にビシビシと感じ来る何かがあった。
またほどなく一人ひとりの背中を、導師の僧侶が円筒状の錦の袋状のもので修法して頂く。
木釼にしろ錦の袋状の物にしろ、命がけの荒行をした僧侶しか授からない貴重なものである。

祈祷が終わって、生徒たち皆が口々に感動・感激を表していた。
私が師の教室に通っていた頃、師が言われた言葉を思い出す。
『中山の行者は私でも恐ろしいよ。熱い火箸一本で何の病気でも治してしまう行者が居るか
ら』と。
今だにそういう行者が居るかどうかは定かでないが、この荒行も100日間を5回、計500日間を
した僧侶が免許皆伝といわれる。
100日間の大荒行も2月10日で「成満会」となる。晴れがましいT上人を迎え入れたい。

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□第24回「外宮 神嘗祭」
2011.11.12 かねてから、生徒さんにぜひ見てもらいたいと思っていた神嘗祭を、この10月15日と
16日に華の会研修旅行として行ってきた。
伊勢の神宮の規定として、神嘗祭奉拝の団体は上限30名なので、生徒さんに声をかけ
上限一杯の人数で行く。
当初、内宮の神嘗祭奉拝の予定で準備を始めていたが、内宮の人気は高く、わずかの
差で定員一杯となり、やむを得ず外宮に変更してのこととなる。

15日当日は生憎の雨となったが、まず、内宮の別宮である「瀧原宮」へ向かう。
ほとんどの生徒さんが始めて行く「瀧原宮」。世間でも、伊勢の神宮に参拝する人は
多いと雖も、この「瀧原宮」へ行く人は少ないのではないかと思われる。
2年前に私が行った時もそうであったが、今回も、我々の団体以外は4〜5名の参拝者
だけであった。
内宮および外宮には14の別宮が在るが、その中でも「瀧原宮」の神々しさは一番では
ないかと思う。第二鳥居から撮った写真をプリントにして見たら、神気が強く出てい
るのを感じる生徒さんが多数いた。

夜10時から始まる外宮の神嘗祭。
雨が降り止まぬ浄闇の中、大宮司を先頭に神職一同が番傘を差して参進して来る。
本来なら、祭主であらせられる池田厚子様(昭和天皇の第四皇女)を先頭にとなるの
だが、お体の具合でも悪いのか、お姿が見当たらない。今年80歳になられるが・・・。
初めて神嘗祭を奉拝した生徒さん達には、感慨もひとしおと思われる。ただ、雨の中
での奉拝ゆえに、整列した参道から少し離れた降雨時の儀式に使われる「五丈殿」で
の修祓の模様が、やや見えにくかったのが心残りであった。
その後、神職一同はご正宮の内玉垣に入られ「由貴夕大御饌 ゆきのゆうべのおおみ
け」と言われる儀式に臨まれる。
我々はその後を追うように、ご正宮の外玉垣の前へと進む。厳かに、かつ厳粛に行な
われているであろう儀式に、じかに見えないながらも皆固唾をのんでその方向へ目を
向けている。
神宮の年に一回の神嘗祭。その時を同じくして、同じ場に居られ、ピーンと張り詰め
た神気のなかに我が身を置く幸せを、皆が噛みしめているようだった。

翌日は見事な晴天に恵まれ、内宮の参拝へ向かう。
2年前に新しく架け替えられた宇治橋を渡り、五十鈴川の御手洗場へと進む。その横の
森の中に、目立たぬような小さな神社がある。「滝祭神 たきまつりのかみ」である。
五十鈴川を守る水の神様であるが、もうひとつ、ご正宮へお参りする人達の取次ぎを
していただく重要な神様である。
皆それぞれに、深く頭を垂れて取次ぎをしていただく。

ご正宮の西隣の御敷地には、平成25年の式年遷宮に向けて新しく御正殿が建てられる
が、その準備のため、既に建設用の覆いが掛けられていた。来年の3月には立柱祭が
行なわれる。
20年ごとに隣り合う東西の御敷地に御正宮が建て替えられるが、現在は東側であるか
ら「米蔵」である。来る25年からは西側の「金蔵」となり、それが20年間続く。

「一生に一度はお伊勢さんへ」と江戸時代から言い伝えられているが、一度といわず
一生に何度でも行きたい処である。

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□第23回「神恩感謝」
2011.10.12 神社・仏閣へお参りに行く人は多数居ると思う。
毎年欠かさずに行く人が居れば、毎月毎月お参りに行く人も多数見受けられる。
近年はスピリチュアルブームの影響で、若い女性を中心に社寺への参拝が増加傾向とある。
例年は、初詣、受験シーズン時は多数の参詣者で社頭は賑わっている。もちろんこれ等は
喜ばしいことで、日本人の宗教心の賜物であると思う。

社寺へ参拝時に、多くの人は真剣に何かをお願いしているように見られる。人それぞれの
願い事はあるかと思うが、目に見えない畏敬の神仏に何かを頼る、すがる、願う気持ちが
自然と湧き出でてくるのであろう。
願い事をするそれらの人々のうち、何人の人達が神仏に御礼参りなり、報告をしているこ
とやら・・・・。
自宅から歩いて行かれるか、車で少し走れば行かれる距離にある神社・仏閣ならば、御礼
参りも難なく行かれるが、旅先で出会った社寺へ参拝がてら気軽にお願いことをした場合、
はたして御礼参りは行っているのやら・・・・、余計な心配をしてしまう。
この神仏に願いを入れて解かない場合、やがて本人に”災い”として返ってくるのである。

手元に神宮司庁から出ている季刊誌がある。平成23年盛夏号である。
その中で、神宮参事のT神職が書かれた記事がある。それによると内宮神楽殿で御神楽奉奏
を奉納される際に、初穂料と共になにがしかの願い事を記入するようになっている。
その願意別の表が、昭和33年度と平成20年度との比較で種々述べられている。昭和33年度
から50年後が平成20年である。50年で日本人の意識がどう変わったのか興味深い。

日々生かされていることに感謝の真心を捧げる『神恩感謝』と『特殊願意』に分けられ、
特殊願意の中で多い順に挙げると、商売繁盛・心願成就・厄除祈願・賀寿御礼・皇室弥栄・
病気平癒・良縁祈願・学業成就・大漁祈願・その他となっている。
その割合を大きく分けると、
昭和33年度は『神恩感謝』は87% 『特殊願意』は13%である。
平成20年度は『神恩感謝』は73% 『特殊願意』は27%である。

個人の願い事を神仏に祈る前に、今日まで日々無事に過ごさしていただいている感謝の気持
ちを、神仏に捧げることが一番重要ではないかと思う。
『特殊願意』の内、厄除祈願が増加傾向にあると記事に書かれてあるが、商売繁盛を、個人
の諸々の心願成就を願う気持ちも解らなくもないが、それよりか、家内安全でいられたこと、
身体健全でいられたこと、無病息災であったことなど、それらが神仏の目に見えない加護の
御蔭であることを肝に銘じなければならない。
    
親が子供を可愛がるように、神仏は一生懸命に我々に対して福を出してくださるのだと思う。
それに見合う心がけ、行動、生活態度なりが有りや否かと問われる。
時に、神様は非常に厳しい裁決を下すことがあると聞く。
神仏に愛でられる己でありたい。

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□第22回「七面山」
2011.08.08 山梨県身延町に在る七面山へ、華の会有志7名の生徒と共に7月中旬に行く。
台風6号が日本列島に近づいているさなか、登詣することをかなり迷ったが、日帰りに
変更して行くことにした。

美しい南アルプスをめぐる山々のひとつである七面山は、標高1982メートルの日蓮宗の
聖地であり信仰の山だけに、登詣は険しい上りの山道を修行の如く行かねばならぬ。
七面山の麓、登拝口の表参道から山頂まで、1丁目から50丁目までの灯篭標識を目安に
登り、通常では片道およそ4〜5時間かかる登山道である。
山頂に着けば、今までの険しい道程とは違って平坦な広い敷地に身延山久遠寺に属する
「敬慎院」があり、伽藍には「七面大明神」が祭られている本社、池大神宮・願満社・
参籠殿などが在る。更に15分ほど歩くと「奥の院」が存在する。

早朝、登拝口に着くも既に本降りの雨である。生徒の誰一人「中止にしよう」とは言わ
ず、皆こころに決意を秘めて雨具などの身支度をする。
登拝口近くの「お萬の滝」で足を洗ってから登るが、雨の中では一苦労である。最初の
休憩所は2丁目にある「神力坊」だが、雨も激しくなり先が思いやられる。8名中5名が未
経験者である。途中で投げ出さないようにと祈るのみである。

登りのみで平坦な所がなく階段状の山道だが、大樹の根っこが纏わり付き、大きい石も
あるので、足元に気をつけながら一歩一歩登って行く。途中のベンチで小休止しながら
二ヵ所目の休憩所がある13丁目が待ち遠しい。
休憩所は他に23丁目と36丁目しかなく、案内図によれば各休憩所の間は50分〜70分とあ
るが、この雨では予定通りにいかない。また雨の勢いが強いので雨具も役に立たずの有
様である。

階段状の山道に雨が滝のように流れ落ちて来るなか、皆必死になって一歩一歩登ってい
る。スタートどきは全員揃って登り始めたが、どうしても個人差があり、いつしか皆が
バラバラに登っている状態となる。
最年長者の65歳〜50歳まで平均年齢57歳だが、一番最初に頂上へ着いたのが最年長者と
一番若い生徒であった。その所要時間は5時間半ほどであったが、最後の生徒が着いたの
は7時間半ほどかかっていた。
途中、雨が小降りとなることもあったが、晴天時と違って二倍三倍の労力が必要だった。
皆、難行苦行の七面山登詣であった。

日帰りの予定が、麓の車道が大雨警報の影響で崖崩れがあり、下山しても車が通行でき
ず、已むなく敬慎院に全員宿泊することとなる。
テレビはおろか携帯電話も繋がらず、まさしく参籠に近い状態であった。
夜19時から「お勤め」に参加し、就寝は21時である。朝は4時に起床し、4時30分から朝
の「お勤め」に参加し一日が始まる。
今回の最大目的である「二の池」の水を戴くことができ、「奥の院」へ行って参拝でき
たこともあり、予定外の宿泊であったが益すること大であった。

参加した生徒は難行苦行の登詣であっても、皆次回も来たいと言う。自家の宗派は違っ
ても、七面山に登詣することに意義があります。
次回は、参加生徒の人数を募って登詣したいと思う。

 

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□第21回「柴又帝釈天」
2011.06.22 梅雨時の束の間の薄曇りの6月上旬、少人数の生徒と共に「柴又帝釈天」へ行く。
ここは、渥美清主演の映画「男はつらいよ」で有名になった所だが、私はこの映画を
見たことも無く、ゆえに行くこともなかった。
行くキッカケとなったのは、此処に僧侶として勤めているT君が私の池袋の教室に来
るようになったことで、以前から話題になっていたお寺だったが、急遽話しがまとま
ってのことである。

「柴又帝釈天」は通称名だが、正式名は「経栄山題経寺」と言い日蓮宗のお寺である。
当寺発行の小冊子に依れば、今から380年程前の江戸時代初期・寛永年間(1629年)の
創立である。
有名になったお寺といえども、奈良・京都の観光地にあるような大きさはなく、街中に
ある普通のお寺のように見受けられるが、しかし、二天門・帝釈堂・祖師堂(本堂)・
釈迦堂・大客殿・大鐘楼とあり、邃渓圓(すいけいえん)の庭園、鳳翔会館もあり、な
かなか立派なお寺であった。

T君の案内付きという特別待遇で境内各所を見させていただいた。
帝釈堂から境内の庭に流れるT君の朗々とした読経の声、教室で見るT君とは様変わり
した法衣姿に自然と頭が下がる思いである。
帝釈堂の内殿まで案内していただき、まじかで見るご本尊に畏敬の念を抱かさせられる。
さらに大客殿に在る「頂経の間」といわれる日本間の床の間に、日本一を誇る南天の床
柱が使われている。この南天は近江の伊吹山麓にあったようで、さる有名な植物学者は
『まさに日本一の大南天で金閣寺の南天柱など顔色はない』と言われたそうだ。この南
天の床柱の直径は30cm程あるという立派なものであります。ここの日本間の天井は、
一見の価値があり勉強になります。

圧巻は帝釈堂内陣の外側にある「法華経説話彫刻」である。
欅の彫刻材で、縦幅 1.27メートル、横幅 2.27メートル、厚さ 20センチのふすま大の
大きさである。この欅材が10枚に渡って法華経の説話を選び出し彫刻したものは、誠に
立派で美しく、さらに厚さが20センチもある彫刻材だけに浮かし彫りのような遠近があり、
細やかな描写が、絵画ではなく彫刻でなされているだけに目を見張るものがあります。
ぜひ多くの人達に見ていただきたいと思う。
この彫刻は、大正11年に著名な彫刻家が一枚目を作成し、残りの9枚を名人彫刻師がそれ
ぞれ彫ったと言われています。大正末期から昭和9年にわたる十数年の年月をかけて完成
した極めて価値があるものです。
聞くところによれば、文化財的価値が極めて高いと評されていると言い、重文の申請を
準備されているようであります。

T君のお蔭で貴重な数々を見る機会に恵まれ、感謝に堪えない。
日蓮宗の宗派は、積極的に占いを取り入れているようだ。T君も未だ若き青年僧侶である。
ゆくゆくは更に立派な僧侶になると共に、干支九星の占いを極めて宗派全体に広げてほし
い。それが檀家・信者さんたちに幸せを差し伸べることになるのである。




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□第20回「トイレの神様」
2011.05.09 昨年あたりからか、若い歌手が唄う「トイレの神様」というのが評判になっている。

『・・・・・トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで だから毎日 
 キレイにしたら 女神様みたいに べっぴんさんになれるんやで・・・・・』

この歌の影響で、どれほどかの女性がトイレ掃除に励みキレイになることは喜ばしい
が、それよりか、トイレに神様が存在することを知らしめたことに拍手を送りたい。

確かに昔から、妊婦はトイレ掃除に励めばお産が軽くなるとか、良い子が産まれると
言われていた。現代の水洗トイレでは、トイレ掃除もそう苦にならないと思うが、昔
のトイレは汲み取りしきであり、まさしく3Kの「くさい・きたない・くらい」であっ
ただけに、トイレ掃除は大変であったと思います。
3Kの便所掃除をさすために、このような謂れがあったのでは、と勘ぐりたくもなるが、
実際はきちんとした言い伝えが、民俗学を中心にして記紀の中にもある。

現代はトイレ、化粧室と言い、一昔前は便所、ご不浄、さらに遡れば厠、雪隠と言って
いた。
そこに神様が存在することを尋ねると、記紀の中で、伊邪那美命が神々をお産みになっ
て、最後に「ヒノカグツチ」という火の神を生んだために、伊邪那美命はミホト(女陰)
を焼かれて病み臥せ、その病の苦しみの中で、糞から成り出でた神の名が「波邇夜須毘
古神・はにやすひこのかみ」と「波邇夜須毘売神・はにやすひめのかみ」であり、次に
尿から成り出でた神の名が「弥都波能売神・みづはのめのかみ」となっています。
単に「埴山毘売・はにやまひめ」と「水波能売・みずはのめ」とも謂われていますが、
この二神が、後の神道家によって厠神となったようです。

ここに一冊の本がある。「竃神と厠神」飯島吉晴著 人文書院 昭和61年(1986)発行
副題に「異界と此の世の境」とあるように、トイレは異界との接点の場所であり、また
異なるものが出会い、交差し、変換する特別な空間であると著者はいう。
本書の中で「人生儀礼における厠」として、各地の習俗を取り上げ、その中に先ほどの
妊婦のトイレ掃除の効能が説かれ、反面にトイレ掃除を怠ると、アバタの子、不具の子
が生まれるとの説を取り上げている。
厠神は箒神とともに産神として信仰されており、出産と厠の結びつきを強調されている。
また「雪隠参り」として東日本各地での習俗、それは生まれて七日目(七夜)に、赤子
を雪隠に連れて行き、厠神に米・赤飯・塩・酒・豆・銭・へその緒・産毛などを供えて
拝むという。
建築儀礼として、便壺の下に埋め物をする風習が各地に見られるとある。

厠における禁忌および伝承として、現代でも通用する大切なことが述べられている。
  1 便所に入る前に咳をする
  2 便所にいる人を呼ばない
  3 便所にいる人を覗かない
  4 裸で便所に行かない
  5 洗い髪のまま便所に行くことを嫌う
  6 便所で唾をはいてはいけない
  7 便所で頭をかかない
  8 夜12時を過ぎると便所に行かない
  9 便所で食事をすると足が屈まぬようになる
  10 厠を清潔にすると、その家に福を与え、不潔にすると禍を与える

ともあれ、トイレという空間の重要性を理解されたい。
男性はよく公衆トイレで唾を吐く人を見受けられるが、これはしてはならない。勿論
我が家のトイレでも同様であります。
最近の若者は時間を惜しむのか、トイレで食事をするという、考えられないことをする。
トイレで食事は当然のこと、タバコを吸うのも悪く、読書も進められない。
近頃は公衆トイレも綺麗になったが、しかし、トイレという汚い場所を好む虫や魔物が
居る。霊的な感覚の鋭い人が公衆トイレを利用すれば、気分を害して出てくる羽目にな
るのを知っている人は少ないと思う。これは事実である。

私は、トイレに入る時は軽く頭を下げて入ります。用を足して出てくるときは、手を洗
うことは当たり前だが、これは禊ぎに通じます。
トイレを掃除することは、多くの人はやっていると思いますが、清めている人が何人居
ることか。掃除だけではなく、日々の清めが必要です。

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□第19回「東日本大震災」
2011.04.11 平成23年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9,0の巨大
地震が起きてしまった。千年に一度といわれる未曾有の大被害である。
テレビなどで見る光景は、目を覆いたくなるような信じられない状態である。
大きな津波がいとも簡単に家屋を流し去る映像を見るとき、水の怖さを改めて
実感し、その陰で、テレビには映らないが多くの人達が津波に流されたことを
知ったとき、どうすることも出来ないその人達のことを想い遣ると、言葉に表
せない切なく悲しい気持ちになってくる。
あらためて、亡くなった多くの人達のご冥福を祈りたい。また被災した多くの
人達にお見舞いを申し上げます。

さて、この大震災を干支九星学の立場から見てみる。
年月は辛卯七赤年・辛卯七赤月である。年月が干支九星とも同盤である。同盤
の場合は裏盤が生じる。卯七赤年・酉三碧月となる。

     六二四         二七九
     五七九ア・ハ  ハ
ア一三五
     一三八         六八四

     亥未酉         巳丑卯
     戌卯巳         辰酉亥
     午申辰         子寅戌

年盤で巳が暗剣と歳破である。巳は日本の印である。平成17年から毎年巳が暗
剣となり平成24年まで続く。そして翌年の平成25年に中宮で巳が五黄と同座す
る。その間、暗剣と歳破がダブルで来るのは今年と来年である。特に日本国が
悪い年となる。さらにこの2年間のうち、月盤で巳が暗剣と月破のダブルになる
のは、この3月節と4月節だけとなる。
年月対冲星は五黄である。年月対冲星は1ヶ月間に起る内容である。五黄に天変
地異の事象がある。まして太歳宮と裏盤・月建宮に廻座している。五黄の事象
が強しである。
地震の事象は、九星で三碧となり十二支では辰である。年盤三碧の状態を見る
と特に問題はない。月盤三碧は裏盤で中宮になり、中宮事象の影響は特に強い。
辰の状態を年盤で見れば定位対冲である。月盤での辰は暗剣と月破である。い
ずれも辰の事象が発動する。
さらに対冲星五黄の掛かりを見ると一白と九紫であり、両方とも傷もちとなる。
一白の事象は津波であり、九紫の事象は原発である。
年月盤を見れば、最後の急所の星は六白である。命の問題となる。

日本の国運を見るには、天皇陛下の星と首相の星である。
天皇陛下の星は、昭和8年生まれの四緑酉であります。菅首相は昭和21年の戌
九紫である。
陛下の星は、年盤坤宮で四緑と酉が同座しています。坤宮での同座は36年に1
回の巡りです。一方、菅首相の戌九紫を見れば、九紫は年盤で暗剣と歳破のダ
ブルであり、戌は震宮で五黄と同座している。本来なら、この震災が無ければ
政治的にアウトとなる時期であった。

日時盤を見てみよう。11日午後2時46分である。乙丑八白日・癸未二黒刻。

         ハ            ア
     七三五         一六八
     六八一         九二四
     二四九         五七三
    ア            ハ

     酉巳未         卯亥丑
     申丑卯         寅未酉
     辰午寅         戌子申

日時対冲星は、年月盤と同じ五黄であり傷もちとなる。一刻は2時間であり、
その時間内での事象が日時対冲星である。掛かりは八白と二黒の傷もちである。
八白変化であり、二黒は大地である。
三碧の状態を見ると日時盤とも問題はない。しかし辰の廻座は日盤艮宮で二黒
と同座であり、時盤では二匝目の中宮である。

このように干支九星学で説明出来るが、いたずらに予言するものではないと思
う。人心を惑わしてはいけないし、売名行為でもある。
まして、このような盤だけではない、天体の影響も考えなくてはいけない。

今年の天文年鑑を見ると、3月6日・7時30分啓蟄となり、3月13日・8時45分上弦
で、3月20日・3時10分満月とあり、同日4時9分、月が「本年の最近」とある。
かたや天文手帳では、3月11日・14時46分「リード彗星が近日点を通過」とある。
日にちと時刻がピッタリ一致しているが、これらが今回の大地震にどの様な影響
を与えたのか不明だが・・・・、まだまだ勉強せねばならない。

今回の大震災を歴史的に見て、平安時代の貞観11年(869)5月26日に発生した
マグニチュード8,3の「貞観地震」に酷似していると専門家は言う。
「貞観地震」は三陸沖を震源地とし、城郭や倉庫などが無数に崩れ落ち、津波が
多賀城下を襲い、千人規模の人達が亡くなったもよう。これを根拠に「千年に一
度の大地震」と専門家は指摘している。
貞観の時代では、3年に隕石が落下し、6年に富士山が噴火するなどの天変地異が
相次いだよう。

誰人も大きな災害が再び起きて欲しくないと、神に祈る気持ちだが、ここ数ヶ月
前から、千葉県内の数ヶ所の神社で「埴土」が数多く出ているのが気になる。私
の教室の生徒さんから報告があり、現物を教室に持ってきてくれる。
師も「埴土が多量に出だした後は、必ず大きな問題が起きる」と、関東大震災前、
終戦前の事を例にして述べていた。
数ヶ月前と思っているのが、実は数年前からだったのか、それが今回の大震災だ
ったのか。それとも今後数年間なのか・・・・。

ある所では、「現在の日本は天の岩戸隠れ」だと言い、また「祝の神事を行って
いないから」だと言うのもある。
ともあれ日本国の印「巳」が、傷もちの平成25年が終わるまで気が抜けない。
皆様、氏神様だけは毎月参拝してください。氏神様は生死を司ります。

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□第18回「辛卯年の意義」
2011.03.10 今年も明けてから早3月となり、本年の干支「辛卯」の意味を説くのも遅きに失するが、
一年の始まりは2月4日の立春からであり、ほぼ一ヶ月遅れの発表となる。

中国文字学の古典である説文解字(説文)によれば、「辛(かのと)」は奴隷などに入れ
墨をする鍼などの象形文字であり、刃物などを表している。
また、「干」と「一」とを組み合わせた文字であり、上を表す部分と、「干」は求める、
「一」は陽エネルギーを表している。そこから「辛」は上に向かって求め冒す意味になる。
今まで下に伏在していた活動エネルギーが、いろいろな矛盾、抑圧を排除して上に発現
するという意味に繋がっていく。
当然そこには矛盾なり、闘争、また犠牲を含むために、「辛」の字には、つらい、からい、
という意味が含まれる。

「卯」の意味するところは「冒」「暴」で、無理に行うこと、おかすことである。
卯は「兎」ではなく「ぼう」という音で、冒であり、また「茆(ぼう)」「茅(かや)と
いう文字であり、同じ意味をもっている。
「卯」は良い意味に取れば繁栄、繁茂であるが、悪くすると紛糾し、動きがとれなくなる
ことを表している。

本年の「辛卯」の干支学的解釈から予測すると、下なる陽エネルギーが敢然と上に出て、
前年の「庚」に次ぐ革新を意味するが、その際、殺傷を生ずるような、鋭い刃物で刺され
たような痛みを感じることから「つらい・むごい・ひどい・きびしい」などの意味となる。
良い意味でとるならば、繁栄、繁茂となるが、悪くすると紛糾し動きがとれなくなってくる。
上手くいくか、難問山積みとなるか、繁栄と紛糾の二極化となるか・・・・・。
「辛」はシンと読み、「卯」はボウとも読み、今年は「シンボウ」・・・辛抱の年か・・・?

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□第17回「麻賀多神社」
2010.12.19

千葉県成田市に在る麻賀多神社へ11月中旬に行く。
最後の霊能者と言われた岡本天明が、この麻賀多神社に参拝直後、社務所で休憩中に
突然右手が勝手に動き、記されたものは漢数字やカナ、記号まじりの自動書記である。
時は昭和19年6月10日のことであった。
『ひふみ神示』第一巻・上つ巻、第一帖に『二二は晴れたり、日本晴れ。神の国の
まことの神の力をあらわす代となれる・・・・・・』で始まり、昭和36年まで断続的に続い
たのであります。それは全37巻に及ぶ膨大な自動書記の天啓の記録である。

麻賀多神社は、平安時代に編修された「延喜式」の神名帳に記載されている、式内社
の由緒ある神社である。しかし訪れる人は多くなく、荒らされていない良い意味での
神気溢れる神社である。
巷はパワースポットブームで、マスコミに取り上げられるとドット参拝者が訪れるが、
この麻賀多神社だけは、そうであって欲しくない。パワースポットの資格は十分だが、
多くの参拝者が訪れることによって、気が乱れることを憂う。

数年前に参拝した時は、同行の生徒の一人が「埴土 はにつち」を数粒探し当てたが、
今回は多量に出ていて、やはり同行の霊気強い生徒が見つけてくれた。
この「埴土」は「米土 こめつち」とも言われ、『ひふみ神示』の中にも「神の土出る
と申してありたが、土は五色の土ぞ、・・・・・薬のお土もあれば喰べられるお土も
あるぞ、神に供えてから頂くのぞ、何事も神からぞ。」とあります。

伊勢の神宮で、二十年に一度の式年遷宮が平成25年に行われるが、内宮御正殿の床下
に在る「心の御柱」も新しくされます。その際「心の御柱」の廻りには土器(カワラ
ケ)を被せる秘儀が行われますが、そのカワラケは天平瓮(あめのひらか)と言い、
埴土と普通の土を配合して造られるようです。
今年の6月に、奈良県に在る「丹生川上神社下社」で、古代の祭祀に倣い天香山の埴土
で造られた天平瓮を用いて祭典が斎行されたことを知る。

十数年前、師から戴いた天平瓮を、私は毎日の神棚参拝に用いている。「己の魂を載せ
る気持ちで拝しなさい」と教わり、大変貴重な天平瓮を戴けた師に感謝している。

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□第16回「平城遷都1300年祭と世界遺産ツアー」
2010.11.14 飛鳥京、藤原京、平城京と、古代の都がおかれた奈良へ10月下旬、華の会有志15名を
含めた旅行社のツアーに参加して行った。
今年は平城遷都1300年にあたり、奈良県全体が活気に満ち溢れている感がする。
羽田から伊丹空港へ、その後、観光バスで興福寺、唐招提寺、薬師寺へと世界遺産の
お寺巡りである。興福寺の阿修羅像、唐招提寺の金堂、薬師寺の東塔など、見るポイ
ントはどれも素晴らしく、各寺は世界遺産にふさわし荘厳さを感じ日本の文化として誇り
に思う。

高野山の宿坊に泊まったゆえ、二日目は早朝の勤行に参加し、高野山奥の院へ向かう。
初めて奥の院へ行くが、専門の案内人に導かれ数多くのお墓が在る中、説明を聞きな
がら歩く。 良く勉強している案内人で、この世とあの世が違う故に、供養に対する所作の
違いを話される。 私が教室で言っている事と同じような話で頷くこと多々である。

案内人曰く 『仏壇に上げるご飯の盛り方は?』、『仏壇に上げるお茶の入れ方は?』など
数多く問いかけながら、生きている人とあの世の人に対しての所作が違うことを言う。
ツアー参加者の多くが一様に驚いているように、今の世は、この大切な所作を知らない人
が余りにも多い。
私も一つだけ勉強させてもらった。 これだけでも旅行に来た甲斐があった。
勉強とは手間隙をかけてやるものである。いいとこ取りする人は、そこまでの人である。

その後、ツアーの主目的である平城宮跡の会場へ向かう。
文化庁が復原整備した第一次大極殿、当時の天皇が使われた玉座 「高御座」の実物大
模型や、天井付近に四神 「青龍」 「白虎」 「朱雀」 「玄武」 の絵と十二支の動物
が描かれてあり、歴史のひとこまを見させていただいた。
その他、平城宮跡地には数々の建物、見学場所が在るのだが、時間が無く残念な思いで
会場を後にする。
再び奈良の地を訪れる日まで・・・・・。
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第15回「和合権現」
2010.06.19  

山梨県甲府市に在る観光地「昇仙峡」へ6月上旬に行く。
ここは、川の浸食により奇岩・滝が多く、中でも「仙娥滝(せんがたき)」は、地殻の断層に
よってできた高さ30mの壮麗な滝で、訪れる人の心を癒してくれる。
昇仙峡には何回か訪れているが、今回もロープウェーに乗り頂上まで行く。

頂上の一角に朱塗りで小ぶりな鳥居があり、側に「和合権現」と明示されている所がある。
神社というには、らしからぬ建物だが、由来書には『主峰金峰山のふもとに、神の摂理か
男女の象徴を合わせ持った樹齢三百五十年を経た楢の木があり、近在の人々から信仰
の木として崇拝されていました』とある。いわゆる御神体としてソレが祀られている。
一本の大木から、その部分だけを切り取った、それは見事な陰陽の象徴であります。

男女の象徴の陰陽が自然に揃って出来ているものを他所では見かけない。まさしく自然
の摂理であります。
陰の部分だけ、陽の部分だけの物、またはそれに似せた物は各地に点在するが、昇仙峡
の「和合権現」は一見の価値があります。

昇仙峡一帯では、他に「夫婦木神社」と「夫婦木姫神社」が在り、「夫婦木神社」では陽物が
神殿の天井から何本も吊るされている。参拝者が神様に願をかけ、それが叶ったお礼とし
て大小様々な木彫りのものが奉納されたようだ。
また、神社の境内にある大樹の幹を見れば、まさに陰物である。これも自然の摂理か。
一方「夫婦木姫神社」では拝殿の裏側に入ると御神像が有り、ここは陰物が刻まれている。
何れも、庶民の素朴な願いである子宝信仰と思う。
何ごとも突き詰めていけば、陰陽にたどりつく。

私が師の教室に通っていた頃、師より教わったことの一つに、「狛犬」に陰陽のモノが彫刻
されていれば、その狛犬は力があると言われた。
以来、幾度となく神社・仏閣へ参拝に行くたびに、狛犬のある一点を見つめ続けてきたが
中々お目にかかれない。
4年前の初夏に奈良の飛鳥へ行った時、参ったお寺で偶然めぐりあえた。狛犬のソレを。
一緒に行った仲間と、巡りあえた喜びに喝采を上げたものだった。
それ以来、あれほどお目にかかれなかった狛犬のソレは、各地で見つけられた。
微妙なモノも多数あり、一喜一憂する狛犬見学である。
今までの中で一番立派だったモノは、島根県・出雲大社の狛犬であった。
国津神系の大本である出雲大社は、さすがに知っているのである。狛犬の意味あいを。
ぜひ見ていただきたい。

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□第14回「諏訪大社参拝」
2010.05.21 長野県諏訪市・茅野市にまたがる諏訪大社「式年造営御柱大祭」は、ニュースなどで盛んに
報じられ、テレビ中継などもされるように天下の奇祭としても有名である。
12年に2回寅年と申年に行われているが、歴史をひもとけば室町期編纂「諏訪大明神画詞」
には、既に寅と申の干支年に行われていると記されているようだ。

しかし、なぜ7年目毎に行われているのかが解明されていないようだ。
和歌山県にある熊野本宮大社では寅年の御神事があり、奈良県にある信貴山も四寅祭り
があります。諏訪大社での御柱祭も含めて、この年に行われるのは艮坤の祭りではないか
と推測されます。
寅の定位は艮であり、世間では表鬼門と称され、申の定位は坤であり、また裏鬼門として
認識されている。目に見えない何かに対して畏敬の念でお祭りを執り行うのかと思います。

平成22年・庚寅の今年、5月14日に「干支九星・華の会」会員49名で諏訪大社へ行く。
御柱大祭は既に終わっており、それを見に行くのではなく諸々の福を戴きに参拝する。
5月にしては肌を差す風が冷たいが、晴天の信州は心地よかった。

秋宮での祝詞奏上・玉串奉奠、春宮・前宮・本宮と続けて参拝させていただいた。各宮で、
樅の木の芳ばしい匂いが漂うような真新しい御柱を目前に見上げ、その先端に神様が降臨
するかと思へば自然に頭が深く下がる。

春宮と前宮の拝殿前で、生徒たちと一緒に「ひふみ祝詞」を拍手打ちながら声高らかに宣り
上げる。
   『 ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか 
   うおえ にさりへて のますあせゑほ れーけー 』

四社を参拝させていただいたが、前宮は三方を山で囲まれ、古社の佇まいと、あたかも鎮守
の杜に来たような懐かしさを感じさせてくれる。
ここは、諏訪大神が最初に鎮座したという、諏訪の古代が秘められた聖地である。すぐ横を
流れる清らかな小川、静寂の中で水音だけが辺りに響く。
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□第13回「国旗 日の丸」
2010.03.08 カナダ・バングーバでの冬季オリンピックは、国中が熱気に満ちた17日間でした。
各国の選手もそうだが、メダルを取った日本の選手は日の丸の旗を肩に掛け、誇らしげに
競技場を回る姿に、日本中の国民が賛美を惜しまなかったと思う。

またこの3月、4月は卒業式、入学式があり、やはり各学校で国旗の掲揚が行われると思う。

思えば私が子供の頃の昭和30年代は、日本はまだ貧しい時期ではあったが、祝日になると
各家々の門前には国旗が掲げられていたのを思い出す。
最近ではそのような光景が殆んど見られなくなって、寂しさを感ずるのは年齢を重ねたせいな
のか・・・。オリンピックのテレビを見ていて、国旗というものを考えさせられた。

国旗がどの様な経緯で定まったのか、意外と知らない人が多いのではないかと思う。否、知ら
ないのではなく、日本国民でありながら学校などで教わっていないのが現実ではないか。
戦前生まれの人達は、当時の状況から考えれば教わっていたと思えるが、戦後生まれの人が
多くなる今の世に於いて、まして核家族の家庭が増えていくことを考えれば、日本国の象徴で
ある国旗・日の丸の意義、経緯を知らずに過ごすことになりかねない。

文献によれば、安政元年(1854)7月、日本船が異国船と紛れないよう「白地に日の丸の幟」
を「日本の惣船印」と定め布告。そして明治3年(1870)1月27日に太政官布告が公布され、
「日の丸」は日本の「国旗」と定められた、とあります。
また日の丸は、日の出の太陽を象徴し、紅白は日本の伝統的なハレの色でもある。 
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□第12回「中部支部新春講演会」
2010.03.01  
社団法人・日本易学連合会 中部支部での新春講演会へ、2月6日(土)名古屋へ行く。
名古屋駅に直結している「アソシア名古屋ターミナルホテル」で、約55名ほどの会員を
前にして『干支九星の占い方』と題し、2時間ほど研修会をする。 

占いを勉強する人が多い中、気学を学んでいる人は居ても、干支九星を知っている人
はまだ数少ないのが現実である。簡単にいえば、九星だけで占う気学に干支を入れて
占うものだが、主に年月盤だけの気学に対して、干支九星は年月日時盤の四つの盤を
用いるのである。大切なところは日盤と時盤であり日命であります。

気学の平面的な鑑定に対して、干支九星はより立体的な鑑定ができるのである。

研修会では、「うらない」の言葉の意味を問いかけ、また「当るも八卦・当らぬも八卦」の
有名な言葉に、実はまくら言葉が有ることを知ってもらう。さらに、今年が何ゆえに寅年
なのか、簡単なようで実は意外と答えられない問題から入っていった。
そして本題の研修に入り、十干十二支の成り立ち、干支の陰陽五行など基礎から始め、
九星に陰陽があるのかと問いかける。
太陽系の惑星から60年暦、180年暦が出来ていることを伝え、九星が9年に一回の運
勢判断だが、十二支を入れれば36年に一回の、より詳しい年運判断になることを訴える。
その元となる古代中国の原書を教え、根拠ある確かな占術であることを伝える。
平成22年の年盤と3月の月盤を通して、地支九星を入れた方位の見方・取り方を教える。
さらに実占例を元に四盤鑑定法と流年法をやったが、残り時間が少なく早口での講義と
なってしまった。
2時間で、あれもこれもと欲張り過ぎたかと思う。主題を二つぐらいにして詳しく講義すれ
ば良かったと反省しきりである。

干支九星の学と術を伝え、広めていくことが私の使命と思っている。

色々と準備に当っていただいた中部支部の支部長と役員の方々には感謝しています。
有難う御座いました。
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□第11回「秋葉神社」
2010.02.20 静岡県天竜市の隣町にある「秋葉山本宮秋葉神社」へ、1月下旬に行く。
全国に約400社ある「秋葉神社」の総本宮であり、火防せの神様としてつとに有名である。
天竜奥三河国定公園に指定されている秋葉山一帯は、海抜866メートルの所にあり、千
古の杉、檜が鬱蒼と繁り、其処にたたずむ「秋葉神社」は、神様が坐す気が満ちています。
文献によれば、和銅2年(709)に秋葉山に社殿が設けられたのが最初とある。慶応3年
(1867)には、正一位の神階を授与されている。

東名高速浜松インターより約1時間、「秋葉神社」下社に辿りつく。杉木立が鬱蒼と繁る中
に古びた本殿が建つが、参拝する人が少なく、それが逆に辺りを神気に包み込んでいる
感が強い。
古来より火の神を祀る秋葉山には天狗が居ると伝えられ、江戸時代以降、天狗の山とし
ても有名らしく、社務所で立派な壁掛け天狗を買ってみた。
下社を後にして上社に向かうが、車一台通行するのがやっとの山道を行くこと数十分。
上社の社頭では巨大な鳥居に目を奪われ、また狛犬のりりしい姿に頼もしさを感ずる。
石畳の階段を上ること200段近くは在るだろうか、山頂に近づくにつれ遠州灘方面の眺望
が疲れを癒してくれる。
手水舎で清めて本殿方向を見ると、なんと黄金色に輝く鳥居が目に入る。全国の神社に
参拝で行っているが、色鮮やかな黄金色の鳥居は初めてである。ここでは「黄金鳥居」と
呼ぶらしく、平成5年12月に皇太子殿下と雅子妃の御成婚記念に建立されたようである。
山頂にたたずむ本殿の周りは綺麗に整備され、ひときわ眺望が美しい。
下社と比べて、上社の本殿は新しい感がある。聞けば昭和61年(1986)の再建という。
 
       
秋葉山神社下社                 秋葉山神社上社

地方の神社参拝に行く時には、前もって自宅近くの産土神社へ行き、どこそこの神社へ
行ってきます、と通しをかけるものである。いきなり地方の神社へ参拝に行っても、神様
は振り向いてくれないようだ。また御神徳を云々する方も多いが、私は神様にはご挨拶
するのみであります。おねだりするような参拝の仕方は勧めません。常日頃から神様に
対する姿勢が出来ていてこそ、また自宅で神棚を祀って、毎日祝詞をあげているぐらい
の生活をしているのなら、神前に出ても愛でられようが・・・・。

「敬神崇祖」これが日本の文化だと思う。


      
秋葉山神社上社
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□第10回「庚寅年の意義」
2010.01.12 本年は庚寅(かのえ・とら)の歳となる。
毎年順番に干支が巡ってくるが、どうも干支というと占いと混同されていますが、これは
れっきとした暦の学問上の語であり、また歴史学上の語であると言われています。

世間では通常「えと」といえば、今年の場合「寅年」となるが、本来は十干十二支のうち、
十干(じっかん)を指すのである。
甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(か
のえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)と言い、《え》の付くほうが兄であり陽、
《と》の付くほうを弟で陰にあてる。
日本の昔において、《え》は年上の者または兄を呼ぶ語であり、《と》は年下の者を呼ぶ
語であった。そこに中国の五行説や陰陽説を当てはめた結果である。
いつしか日本で「えと」といえば、十二支を現す語となってしまった。

文献をたどれば、「庚」は両手で杵を持って穀物を搗(つ)いて米となし、糠の出る形の
象形文字であり、また「繰り返す」更に通じ、更新を意味する語となる。さらにこの「庚」
には3つの意味が備わっていて、償う、更新、継続の意もある。
前年からの諸々のことを継続していくが、過ちとか失敗を反省し償い、改めて更新して
いく姿勢が大切なのである。進化しながら更新する、これが「庚」の意味である。

「寅」の意味は、古い甲骨文字とか篆文などから見ると、象形文字であり矢の形に象る。
両手で矢竹の曲がりを真っ直ぐに伸ばす形であり、伸びる意がある。
寅の「宀」は家であり建物を意味し、家の中で体を伸ばして居住いを正す意がある。
さらに真ん中の部分は、手を合わせる・協力する意を表し、下の「ハ」は人を意味する。
そこから、《つつしむ》《たすける》という意味が生じる。

以上から本年の「庚寅」が示す生き方を学べば、従来から続いてきたことを継続すると
ともに、そこで気がついた過ち・誤りや失敗を大いに反省し、かつ償い、改め、周りの人
たちと力を合わせ協力し、進化しながら更新していく姿勢が大事ではないかと思う。
     
                        参考資料 「干支の活学」 安岡正篤 プレジデント社
                               「干支の漢字学」 水上静夫 大修館書店 
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□第9回「寒川神社講演」
2009.12.22
相模國・一宮『寒川神社』にて、崇敬会の人達を前にして12月13日に講演を行なった。
H15年(2003)に依頼されてから、毎回この時期に行ってきた。5回目となる今回も、約
40名弱の人達に来年の世の中の展望と共に、一人ひとり来年の運勢を伝えていく。
崇敬会の人達は、信仰心は有っても占いには素人である。流年法で細かい計算をした
上での発表であるが、言葉にしてしまえば聞き流され易い内容となってしまう。
限られた時間内では、あれもこれも伝えたいと思っても無理がある。しかし、ほぼ毎年
呼ばれている事を思えば、好評なのか?
神職の方も人間である。個人的な悩み、問題も有るようで、名刺交換の時に何気なく
頼まれる。

ご本殿の真裏に『神嶽山(かんたけやま)神苑』と名付けられた、回遊式庭園が今年の
9月に竣功され、見学できる機会に恵まれた。
長年禁足地とされていた御神域だが、寒川神社の起源と深い関わりがある『神嶽山』と
『難波の小池』が整備され、御神水で満たされた池泉、茶室などがあり、ひと時の心の癒
しに浸れる。また庭園の一角には資料館があり、方位除け神社としての沿革および宝物
などが、こじんまりとした中に収まっており、ここは一見に値する。
冬の時期は一時閉館中だが、来春頃には再び開けるようだ。但し、拝殿で神職の祈祷
を受けた者だけが見学の資格を得られるようだ。
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□第8回「ゼロ磁場・分杭峠」
2009.11.29
長野県伊那市に在る分杭峠(ぶんぐいとうげ)へ、11月26日に華の会有志5人と共に行く。
テレビで紹介されたらしいが私は見ておらず、既に行った人は「気(エネルギー)がすごく
出ている」とか、「驚異のパワースポットである」とか口々に云う言葉には真実味がある。

日本列島最大の「中央構造線」は、中部地方で本州を横断し更に紀伊半島から四国・九州
中部に及ぶ大断層地帯だが、両側の異なる地質がぶつかり合っていて、そこに地球のエネ
ルギーが凝縮されているようだ。その真上に位置するという分杭峠。
その中央構造線上には諏訪大社および伊勢神宮が位置し、更に延長線上を東へ向けれ
ば鹿島神宮も位置するという、何か大地から凄いエネルギーが出ているのも頷ける。
この分杭峠が「ゼロ磁場」という特殊な場所であることを発見したのが、中国で著名な気功
師の方で、今から約15年ほど前の事であるようだ。

細い山道を車で通り抜けながら、更に未舗装のデコボコ道を数百メートル行くと、分杭峠の
「気場」に我々一行は到着した。
こんな山奥でも既に車が10数台駐車していた。地元ナンバーの車はもとより関東圏、中部圏、
関西圏の車があり、流石に評判のゼロ磁場である。
湧き水の水量も豊富で、ポリタンクを手にして山の気を含んだ水を貰いに来る人達もいる。
      
ゼロ磁場の大気は身体に良い影響を及ぼすようで、数名の人は簡易椅子を持ち込んで、そ
の磁場を身体全体で受け止めるかのように、長時間に渡り座り続けている様子。
その場に居た人が話すには、足の悪い人がゼロ磁場の気を受けたことによって、帰りはスタ
スタと歩けるようになったとか、また別の人は、癌を患っていたがゼロ磁場に通っている内に
癌が完治し、そのお礼に斜面の鉄柵を寄進したとか、受け止め方は人様々と思うが・・・・・。

我々一行はその「気場」で水を取ったり、軽い飲食をしたり、談笑しながら1時間強は居ただ
ろうか。皆その大気を受けて、身体から出るエネルギーを身を以って体験し、お互いに確認し
あったり、喜び合ったりして、「気場」の凄さを感じていた。
数百メートル戻ると、もう一箇所の「気場」があり、其処でも駐車場には10数台の車が有った。
そこは山の斜面だがベンチが設えており、既に10数名の人達が寡黙に座りこんでいる。
我々は此処でも1時間強は居た。斜面を降りて石を探す人、たまたま居合わせた整体師に体
を治してもらう人、寡黙に座り続ける人など様々な過ごし方をした我々一行だった。
入れ替わり立ち代りに来る人達を見ていたが、年齢層は20代から70代の人達で、年配の人
が何人か足が悪い様で、杖をつきながら滑る斜面を柵につかまりながら、トボトボと歩いて来る
には驚いた。そして同じ様にベンチに座り続ける。
山の斜面だけに、若い人でも柵なり綱につかまらないと滑る所だが、杖をついてまで来る価値が
きっとあるのだろう。

分杭峠の「気場」2箇所に、我々一行は都合3時間余り居ただろうか。皆口々に「気」の凄さに
感じいっていたが、どうも私一人だけは鈍感なのか、少し身体が軽くなったような気もするが、
女性陣が騒ぐ「気」の凄さほど私には感じられなかった。男と女の違いか・・・・・。
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□第7回「内宮 神嘗祭」
2009.10.16
伊勢神宮では年間延べ千数百回におよぶ祭祀が行われていますが、そのうちで最重要祭祀は
毎年10月に行われる「神嘗祭 かんなめさい」であります。その年の新穀を大御神さまに奉って
感謝の祈りを捧げる祭祀です。
この御祭祀に、はからずも池袋教室の生徒さんである、Aさんのご好意で他の生徒さん3名と共に
10月16日「神嘗祭」の御祭祀を観る栄誉に恵まれました。
夜8時ごろから、事前に許されていた約500名ほどの人達が内宮の宇治橋前に続々と集まり始め
衛士の先導で月明かりだけの暗闇の参道を緊張しながら歩く。手水舎で口と手を清め第一鳥居
第二鳥居をくぐり、ほどなく神楽殿近くの参道脇に皆たたずみ、祭祀の始まるのを心静かに待つ。
秋の虫声だけが聞こえる静粛な中、闇夜に浮かぶ目の前の威厳ある建物、内宮の神々しい霊気
を感じながら、いつしか遠い江戸時代にタイムスリップしたような不思議な感覚を味わう。

夜10時少し前、静粛さの中、神官さん達が履く浅沓の玉砂利を踏む音が一糸乱れず聞こえてくる。
松明の灯りだけを頼りに、祭主で在らせられる池田厚子様(昭和天皇第四皇女)を先頭に多数の
神官さんが一列で闇夜の参道を進まれる。
やがて忌火屋殿の前で修祓の儀が厳かに行われた。みな固唾を呑む様にしてその祭儀を見る。
再び列を整えられて、祭主以下神官さん達がご正宮の階段を上り御垣内へと入って行かれた。

参列者全員がその後を追うようにしてご正宮の板垣前に集まり、闇夜の中、内玉垣の中で厳かに
行われている祭祀を、見えないながらも何かを感じ取るかの様に真剣に見ている。
内玉垣の中で奏でられているであろう、微かな雅楽の音が聞こえてくる。
        
ご正宮を後にして暗闇の参道を歩きながら考える。
この雰囲気、この厳粛さ、言葉では伝えきれない厳かな儀式。生徒さん達にぜひ見てもらいたい。
この神々しさは他ではない、伊勢神宮でしか感ずることができない。
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□第6回「佛像彫刻展」
2009.10.13
東京・池袋にある東武百貨店で開かれていた「大佛師・松本明慶 佛像彫刻展」を10月13日
観に行った。やがて人間国宝になる人、との噂も聞かれる明慶氏だけに、会場は大勢の人で
賑わっていた。大小約百体以上の仏像が展示され、その顔は皆ふくやかな良い姿であった。
やはり仏像も顔が命か・・・。
各宗派の本尊仏を始め、観音菩薩像、不動明王、弁財天、地蔵菩薩、三面大黒、毘沙門天
など様々な仏像の展示だが、どれを取っても庶民には手が届かない価格であった・・・。
合掌の姿で彫られている仏像は、みな手の位置が胸の辺りで、角度45度ぐらいである。これ
が正式な手の位置と角度と思う。合掌した手を口元にもってきてはいけないことを再確認。
      
      『大佛師 松本明慶 作品集』 松本明慶佛像彫刻美術館発行  4800円+税
      『ひとふりの命 大佛師 松本明慶』   〃      〃       1800円+税
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□第5回「ひふみ神示」
2009.09.21
最後の霊能者と言われる岡本天明氏の「ひふみ神示」。
長年に渡りその研究をしつづけ「日月神示」の本を著した、中矢伸一氏の講演が9月13日(日)
横浜みなとみらいのホテルで行われ、初めて聞きに行く。
今までは、ほんの一部の人達だけが興味を持たれた「ひふみ神示」。それが中矢伸一氏のお
陰か、「ひふみ神示」に興味を示される方が多くなり、中谷氏の講演を皆真剣に聞いている。
やがて講演終了まじか、全員で「ひふみ祝詞」四十七文字を宣り上げる。

私が岡本天明氏、及び「ひふみ神示」の存在を知ったのは、師から伺った約25年ほど前のこと
である。その後「ひふみ神示」の中に在る、「日月地聖典・下篇」を師から戴いたのが12年ほど
前のこと。 「ひふみ祝詞」も、千葉県成田市にある「麻賀多神社」も岡本天明氏に繋がる。
ひふみは秘文。
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□第4回「四盤暦原稿」
2009.09.15
平成22年度「四盤暦」(青年気学研究会発行)に掲載される原稿を9月上旬に提出。
この「四盤暦」は昭和58年から年1回発行されているが、年月日盤を1日1ページ毎に365日分
出ており、更に1刻2時間として12の時間盤も毎日記入されている大変重宝な「四盤暦」である。

毎年夏は、この原稿書くのにプレッシャーを感じつつ過ごす。今回で9年目になり、長く続けられ
たことに感謝しつつも、原稿用紙20枚ほどの量にアクセクする自分が不甲斐ない。今年の主題
は「解神」を取り上げた。気学だけを学んでいる方には意味不明だと思うが、わが干支九星学で
は大変重要な助けの星「解神」である。対人関係に・方位に・その他にと用いられる範囲が広い。
なるべく解り易く書いたつもりである。他に実占例2題も併せて書く。
他に2氏のそれぞれの研究内容が載り、さらに今回から九星の秘密(一白〜三碧)と題した文章
がY氏によって連載される。             11月下旬発行 頒価税込6300円 送料300円
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□第3回「浅間大社と古事記語り部」
2009.08.27
干支九星・華の会23名で、8月22日に静岡県・富士宮市にある式内社「富士山本宮浅間大社」
へ行く。ここは富士山をご神体とし、また全国1300余の浅間神社の総本宮であります。
ご祭神は「木花之佐久夜毘売命」とあるが、千木の形は男神である。
大きくそびえ立つ楼門の前には、神霊を宿した鉾を立てるための鉾立て石が置かれており、
拝殿・本殿ともに朱塗りの大きな建物が美しい。
その後、6km離れた浅間大社の元宮へ参る。鬱蒼とした杉木立に囲まれ、榊の大樹と祭儀後の
敷石だけが残された神域であるが、まさに神様が坐すと云う気を感じられます。

更にその後、本日の主目的である山梨県・甲府「武田神社」へ向かう。
女優の浅野温子が語り部になり「日本神話への誘い」と題し、古事記の中「ヤマタのおろち」と
「コノハナサクヤ姫とオオヤマツミ」を演ずる語り舞台。1500人余りの観客を前に、蝉の鳴き声
だけが聞こえる境内の能舞台で、浅野温子の熱演に何時しか古事記の世界に引き込まれる。
ヤマタのおろち退治に立ち向かうスサノオノ命の勇姿を演じ、コノハナサクヤ姫とイワナガ姫の
姉妹の間に漂える悲喜こもごもの葛藤を演じてくれました。事前に古事記を読んでいた人には
理解が一層深まったと思う。次回の語り部は10月30日、東京・世田谷の松陰神社である。
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□第2回「神々の美術展」
2009.08.18
8月10日に、東京・上野「東京国立博物館・平成館」で行われている『伊勢神宮と神々の美術』展
(〜9月6日)を見に行く。
平成25年に式年遷宮が行われますが、今回はその記念特別展であります。
普段、私達が見ること出来ないきらびやかな御神宝の数々を目の当たりにして、深い感動に包ま
れました。
千三百年前から脈々と受け継がれている、二十年に一度の式年遷宮の厳粛さ。
その都度、御正殿を始め御神宝・御装束を造り替える、その記録などが展示され、改めて見るこ
とで伊勢神宮の奥深さ・歴史を再確認させられました。
また「古事記」や「延喜式」などの古文書も展示され、直に自分の目で古文書が見られ、何ともい
えない喜びでありました。
過去に何回か伊勢神宮の徴古館で見学していますが、時間に追われてユックリ見ていず、今回
は時間にさえぎられず丹念に見ることができました。
お時間の有る人は、ぜひ自分の目で見てください。

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□第1回「氏の神様探し」
2009.08.10 「松本」の氏の神を探し求めて、8月4日に長野県松本市に行く。
氏神様とは、遠い祖先を同じくする氏族が信仰対象とした氏の神様であり、また氏族の祖先の霊と
もいえます。
とりあえず同じ姓の神社へと思い、長野県・松本城の側に在る松本神社にたどり着く。
江戸時代初期に創建された古社であり、境内は歴史を感じさせてくれる気に包まれ、拝殿前で深く
頭をたれる。
しかし神社の由緒概要を読めば・・・・。氏の神様探しはさらに続く。
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